広報誌「CCC」

CCC広報誌

CCC広報誌

C.C.C.では年に2回(6月末と11月末)に広報紙「C.C.C.」を出しております。
C.C.C.関係諸氏の巻頭文やカウンセリングの学びをなさっている方々の講座の感想文、色々な関連機関の訪問記事、書籍案内など、首都圏の教会などに発送しています。
前の号も含め多少の残部がありますので、ご希望の方は送料(1部90円)を添えてC.C.C.事務局へお申し込みください。

 「答えのないところを生きるために」

 ~不条理の問題を考える~

    CCC 相談所長 賀来周一

 昨年起こった東日本大震災の出来事は、「なぜ、こんなことが」と問う問いを多くの人たちの心に残しました。この「なぜ」に答えがあるかといえば、他人事としての答えは一応あるでしょう。「運命である」、「試練である」、「時がくれば分かる」、中には「天罰」という答えもありました。しかし、思いがけない災難を自ら体験し、これから先どのように生きようかと苦悩する当事者自身がそのような答えを聞けば、怒りこそ覚え、これから先の希望への道筋を示すしるしを見ることはありません。「なぜ、私に」、「なぜ、今」、「なぜ、あの人が」との問いあるのみです。当事者にとっては、白々しい他人事への答えよりも、「私」自身が、これからを生きる答えが欲しいのです。

大江健三郎さんに「人生の親戚」という作品があるのをご存じでしょう。ムーサンという知的障がいの兄と、交通事故で下半身不随になった、頭脳明晰な弟道夫の話です。ある日、伊豆の城ヶ崎海岸でのこと、兄は弟の車椅子を押していました。ところが、弟がブレーキを引いてしまったので、兄は車椅子を押せなくなり、車椅子から離れて自分で海岸の崖まで歩いて行って、身を投じるのです。弟は車椅子のブレーキを外します。そこはスロープになっていたので、車椅子ごと崖から落ちて死ぬ、という悲劇が起こります。

私は、大江さんが「人生の親戚」をなぜ書いたかというテレビ講演を聞いたことがありました。大江さんは、こう言うのです。<このような出来事が起こると、人々は答えを知りたがる。結局のところ、弟は歩けないし、兄は事態が分からず、二人は海に落ちたのだと結論づけて納得するだろう。でも、ここでは答えがない世界を設定している。弟がブレーキを引いた。兄は、車椅子を離れて自分で身投げした。弟はブレーキを外す。そこは坂になっているので車椅子はそのまま落ちた。そこには答えがない>。

実は、この小説の主人公は、自殺した兄弟ではないのです。母親である倉木まり恵が息子たちに起こった出来事を答えのないままに受容していく物語なのです。彼女の生き方もまた苦悩と悲劇に満ちています。

大江さんが、この小説で主張するのは、起こった出来事を答えのないままに苦しみながら受容する生き方があってよいということなのです。いろいろな宗教的要素も織り込まれて物語の展開を助けてはいるのですが、安価な神の登場を許す宗教よりも答えのないところを生きる苦しみのプロセスそのものが、嘘のない答えとなっているという主張があることに読者は気付きます

不条理の最中に身を置く当事者自身にとっては、問いだけあって答えがないところを否応なく生きねばならないということは、避けられない現実です。しかも起こった事態が如何に悲劇的であろうと、前に向かって生きなければなりません。それも現実です。そのためのもう一つの真実は何か。それが、わたしたちの課題ではないか、そうこの小説は教えているように思いました。そう思うとき、あらためてドイツの女流神学者ドロテー・ゼレが書いた「苦しみ」を思い出すのです。

文中、第二次世界大戦下のユダヤ人強制収容所の出来事が引用されています。過酷な状況下、収容されていた子どもたちが脱走します。ほどなく子どもたちは掴まります。ドイツ兵は見せしめのため収容所のすべての子どもたちを一列に並ばせ、五番目毎に銃殺したというのです。

ゼレは、<このような時には全能なる神、愛である神は、どこにもいない。そのような神がいるのなら、すぐにでもやって来て五番目に並んだだけで殺されねばならない子どもを助けるはずだからだ。しかしながら、もし神がいますとすれば、五番目に並んだだけで殺される子どもと共に銃殺される神がいるのみだ。それは苦しむ神である>と言うのです。彼女はこの神を十字架のキリストに見ました。

十字架の出来事は、それこそ答えのない不条理の極みです。なぜなら、神が神を見捨てた出来事だからです。だからこそ、キリストご自身もこの極みに身を置いて「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と問いを告白されるのです。ここには答えがありません。答えのないところに身をおいた者の問いのみがあります。言い換えれば、キリストは不条理の最中にご自身を置き、そこには答えがないという現実を「どうして私をお見捨てになったのですか」という問いの言葉で明白にされたと言えるでしょう。

しかしながら、キリストが答えのない極みに身を置き、問いを発せられるとき、その問いを問わざるを得ない出来事そのものに答えのない苦しみのプロセスを生きる者への新しい展望があるのだと言えないでしょうか。

「どうして私をお見捨てになったのですか」というキリストの問いは、不条理の中に生きている「私」自身が問う言葉そのものです。けれども、よくよく考えれば、そこには[私」の苦しみを共に苦しむお方がいます、という出来事が起こっていることに気付くのです。問いだけあって答えはないようだけれども、不条理の世界を共にしてくださるお方がいます、それが聖書の答えだと思わざるを得ないのです。

まことに、それは聖書全体を通して通奏低音のように流れている、「インマヌエル、神共にいます」という信仰の世界に目を開かせます。この「インマヌエル」という信仰の世界は、なぜこんなことが私に起こるのかという不条理の事態を現実に生きざるを得ない者のためになくてならぬ答えであると思わざるをえません。

一般的に言っても、答えのない事態に身を置くようなことがあれば、一緒にいてくれる人がいて、現実を共にしているかどうかが決め手になります。もちろん、誰でもよいというわけにはいきません。当事者にとって意味のある重要な人物でなければなりません。でも、不条理の問いを抱えた人は、自ずとそのような意味のある重要な人物を身近なところに見出すものです。それがどのような形であるかは分かりません。ある災害ボランティアは、支援活動が終わる頃、被災者ひとりひとりに花を手渡し、「何もできませんでした」と告げて別れの挨拶をしたと聞きました。おそらく貰った人は、「何もできませんでした」という言葉を額面通りに受け取った人はいなかったでしょう。花を貰った人の心に、何ひとつ前向きなことは起こらなかったでしょうか、

きっと何かが起こったに違いありません。