「こじれない人間関係はない」
人間関係のなかでこじれない関係をもつということはほとんど不可能に近い。職場、家族、夫婦、教会も例外ではない。活動する上で親しさや協力が求められる関係のあるところほど、こじれるといって過言ではない。その意味では、こじれる関係にあるときは近い関係にある証拠なのである。
まったくの赤の他人との間では、けっしてこじれることはありません。関係の持ちようがないからです。しかし親しさや信頼関係が求められる関係があるところでは、こじれることが多いのです。
そのような場所では、活動するのに意見を合わせたり、協力することが求められます。ところが人はそれぞれに考え方、感情の持ち方、行動の仕方がちがいます。だれかが、なにかしようと提案しても、おいそれと皆が賛成してくれるとは限りません。ある人は他に関心があるかもしれませんし、ある人は今は忙しいと言うかもしれません。ある人は、それはとてもよいことだと心のなかでは思っていても、言いだした相手が気に入らないので賛成しないかもしれません。
そうなると多数決で決めるとか、一定のルールに従って実行するなどして、活動することになります。一般社会では、人間は意見を異にすることを前提にして、活動をスムースに実施するための制度や規則、指揮命令系統を定めています。多くの人は、これらに従って活動をしているのです。けれども心から納得して活動をしているかどうかはわかりません。多数決で決まったから仕方がないと思って、いやいやながら活動に参加しているかもしれません。あるいは他にすることがあるのだけれど、決められたことだからとあきらめムードで活動をしていることもありましょう。
見かけの上では、いっしょに活動をしているようでも、感情の世界ではちがう気持ちが動いています。この気持ちが、同じ活動をしている仲間に向けられると、こじれになって人間関係に反映するというわけです。ある場合には、意地悪なことをしてみたり、わざとらしい振る舞いをしたり、やたらと文句を言ったり、過剰な言い訳が多かったりと、こじれのパターンはいろいろです。表面にはでてこない気持ちの部分、つまり感情の世界が人間関係のなかにうごめくのです。
社会はそれがどこであれ、協力して活動をするシステムになっていますから、人が活動する場所、たとえば会社、家庭、学校でこじれが起こりやすいといえます。教会であっても、こじれることは珍しくありません。人が集まって活動するところでは、人間関係がこじれるものだという現実にまず気付くことです。
言い換えると、こじれたときは活動をしているときであり、心を合わせなければならない関係にあるときです。なにもしなければ、こじれることもないのです。また信頼関係や愛する関係があればこそ、こじれも起こります。冷えきって背中を向け合っている関係では、こじれるだけの親しさもないのです。
こじれを、活動する、 信頼する、愛するあかしとして見るならば、ストレスも多少は減少するのではないでしょうか。
「気持ち整理&生き方発見」賀来周一著 (人間関係のなかを生きる P111~114より)