『大震災を思いめぐらす』~ 災害心理と災害思想…斎藤友紀雄

キリスト教カウンセリングセンター研修所長、日本自殺予防学会理事長    斎藤 友紀雄

 

3月11日に発生した東日本大震災は、その未曾有の規模の震災と津波という自然の圧倒的な脅威をむき出した。さらに福島原発の爆発事故によって、被災者のみならず日本人が等しくその生きざまと死生観を問われた時であったと思う。いのちの電話やC.C.C.でも特設の災害ホットラインを設置したが、「人生観が変わった」というような相談が目立つ。

 

こころのケアの必要

大災害によって凄惨で過酷な経験をした人は、往々にしてその記憶を反復的に思い起こし、悪夢にうなされたり、時にはその災害が再び起きたかのような錯覚や幻覚すら持つようになるという。放置すれば、さまざまな心身の障害が出てくることはよく知られている。こうした理由から、心身の危機に直面している人々への初期的ケアが必要とされている。こうした症状は「精神疾患の分類と診断の手引き」では「心的外傷後ストレス障害」(PTSD)と呼ばれている。阪神大震災の折には、この言葉が独り歩きした感があったが、今回は冷静に受け止められたようだ。当時すでに、故人となったが精神科医の加藤正明氏は「正常な悲嘆反応とPTSDを混同すべきでない」と忠告し、中井久夫氏も「ぼくも阪神でPTSDになった」とさりげなく話してくれた。既に60数年前に、精神医学者リンデマンはいわゆる「急性悲嘆」を提唱したが、これはPTSDに近い症状であり、リンデマンはこれをむしろ“正常”な反応としていたのである。今回の大震災後に、精神科医齋藤環氏らはイラク、アフガンなどで戦闘に参加した兵士たちの中で、米兵がPTSDになった比率は英兵に比べて6倍もあったという事実を踏まえ、背景に社会文化的な違いがあると指摘する。はては「PTSDになると思うから発症する」

といった危ない見方もある。

今回の大震災や津波災害の報告では、日本人の忍耐強さということが海外にも伝えられた。これは東北の農民については当たっているが、都市型の神戸市民はどうであったか。この辺はあまりきめつけないほうがいい。

最近とくに医学や心理臨床で強調されているのは、「レジリエンス」(弾力性)である。自己回復力とも訳されるが、従来から「対処能力」という言葉も使われている。弾力性のほうがいきいきとしている。ハーバード大学で教鞭を執った精神医学者キャプランは、ボストンの教会(アングリカン)を克明に調査して、自殺などの危機が発生した場合、生きる意味などの内面的支援によって人間を支えていると評価した。その背後にあるのはさしずめ「ありとあらゆる境遇に処する秘訣」(パウロ)であろう。われわれの立場から言えば単に文化的背景だけではなく、宗教的な背景も指摘しなければならない。治療、こころのケアとともに生きる意味にかかわる価値観が“レジリエンス”を強化する。

 

災害思想-災害の意味を問う

今回の大震災直後にある政治家が災害は天罰であると発言して顰蹙をかったが、古くから災害は“天罰”ないし“天譴”(てんけん)と理解されてきた。『日本書紀』では推古七年(599年)に大和の地震が記録されている。聖武天皇(701-756年)は、東大寺の造営や遷都で知られ、絶大な権威を持っていたが、時代は疫病の流行、地震、旱魃、叛乱など激動期にあった。彼は災厄があるたびに、これを失政と考え、自責の思いから経典の転読や写経を行わせ、遷都、大赦を行った。つまり災害を倫理的に理解したと言えよう。

今日ヨーロッパのキリスト教社会でも、災害を倫理的に捉えることは少ないが、最近岩波書店から出版された哲学者ジャン=ピエール・デュピュイの『ツナミの小形而上学』は、本論にふさわしい文献といえる。自然災害と戦争、テロなどに共通して現れた「悪」の問題を再考しようとする著作である。デュピュイはスマトラ沖地震に触れながら「破局の未来」にどう向き合うかについて問い直している。事前に地震と津波の高い蓋然性についてタイ政府は承知をしていたにもかかわらず、自国の観光業を壊滅させない意図からあえて警報を発しなかったと指摘する。自然災害といえども、社会的脆弱性のために惨事をもたらすとも言う。このことは今回の福島原発の惨事についても言えないであろうか。政府と原発関連企業が作り上げた安全神話という欺瞞の中で、この災害が起きたと言える。福島に限らず、行政と電力会社間でのメールによる“やらせ”はまさに癒着そのものであり、これこそ現代の悪であり、罪であろう。このようにデュピュイ自然災害は何を意味するかという永遠のテーマを、“悪”に焦点を当てて論じている。

 

人生を深く考えるとき

作家の伊集院静氏は三月の大震災と福島原発爆発の直後、フランスの友人から「住まいも仕事も用意するからこちらに来ないか」と移住を勧められたと聞くが、氏はこれを謝辞している。理由は“この大きな災害が何であるかを現場で見つめたい”さらに“神の存在を考える最良の時だと思う”とこの友人に伝えたそうである。氏は、カトリックの信仰を持つ夫人に、「神が君たちに何をしてくれるのか」と無神論者の立場で尋ねたところ、夫人は次のように答えたそうだ。

「何かをしてくださったということはありません。でも、どんな時も、そばにいてくださいます」(伊集院静「旅先でこころに残った言葉」『シグナチャ―』10月号、2011)

ここには伊集院氏夫妻同士の尊敬と絆の中で、氏のこころにひらめいた一つの悟りがあるようだ。信条の違いを超えて真に恐るべきものを恐れ、より確かな死生観を持ちたいものである。このような死生観こそ未曾有の危機を乗り越え、新たな希望を生み出すのではないだろうか。このことを2011年の誓いとしたい。

 

「教えてください、主よ、私の行く末を

わたしの生涯はどれ程のものか

いかにわたしがはかないものか、悟る

ように。」 詩篇39:5

 

 

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