『いやしの窓』~「気持ちの整理&生き方発見」より~

「認められなければ、生きることはできない」

認める、認められるということは、ごく普通の日常行動である。しかし人は、どのようなお年寄りでも、生まれたばかりの赤ん坊でも認められたいという気持ちをもっている。これを承認欲求といい、その欲求を充足したいと願う。認められることへの飢餓感のようなものなので、承認飢餓ともいわれる。

 

なぜそういう気持ちになるかということを説明してみましょう。人はもともと認められなければ、生きるということが始まらないのです。えっ、どうしてと思われるかもしれませんが、生まれ落ちたときのことを考えてみましょう。牛や馬は生まれ落ちると自分の足で立つことができ、そのまま母親のところへ行って、乳房にすがることができます。しかし人間の子どもは、それができません。もう倍ほどの時間をお母さんのお腹のなかで過ごせば、自分の足で立って、自力で乳房に吸いつくことができるでしょうが、ある意味で未熟児として生まれますから、自分以外のだれかの手でお母さんのところまで連れて来られないと生きることができないのです。そうでなければ死んでしまうでしょう。だれかの手が自分の体に添えられて、お母さんの胸元にまで連れて来られるということは、とりもなおさずそこにいることが認められるということにほかなりません。もちろん赤ん坊ですから、身体的な感覚の世界で認められるという経験をしていることになります。そのような感覚は、ずっと昔のことですから無意識の奥に影を潜めてしまっています。けれども、命は認められることから始まる、それは人間にとって否定することのできない事実なのです。

発達心理の視点で言えば、認められて命が始まるという経験は、お母さんとの肌の触れ合い、つまりスキンシップでさらに強化されます。なにしろ赤ん坊にとっては、お母さんの胸は全世界を表しているのですから、その胸が温かれば温かいほど、柔らければ柔らかいほど、そひてその時間が長ければ長いほど、世界は優しく赤ん坊を認めてくれていることになります。その感覚は、おまえさんの存在は世界から歓迎されている、安心して生きていていいんだ、というメッセージを含んでいるのです。

もしお母さんとの触れ合いの経験が不足していたり、なんらかの環境的な要因で辛さや過酷さを感じたりするような経験が継続すれば、生きることはできるにしても、生きることは大変なことだと感じるかもしれませんし、生きることに不安を覚えるかもしれません。ときとして、そのような環境のなかで生き抜いた人は、人間は苦労しないと強くなれないと思うこともあります。

しかしだれであれ、生きる以上は、世界が自分を歓迎してくれていることが望ましいのですから、優しく認められたいのです。生まれたばかりの赤ん坊なら感覚の世界で。成長するにしたがって、ほほ笑みや穏やかなまなざしで、そして優しく包み込む言葉で。子どもだけではありません。おとなだって、この世界に生まれた以上、優しく歓迎されたいのです。

「気持ち整理&生き方発見」賀来周一著より(「認めなければ、生きることはできない」P40~)