「危機にさいしてユーモアを」
成熟したパーソナリティーの持ち主は危機にさいしてユーモアを持つことができる。それに対し、未成熟な人はユーモアとならず皮肉となる。ユーモアは相対立するものを統合し、皮肉は分裂させる。
危機にさいして、そこをどのように切り抜けるかは重大問題です。人が危機感を覚える最大の事態は己が死を迎えるときでしょう。生きることを前提にして、さまざまな営みを繰り広げて、今日に至った「私」という存在を、死は否定します。生の対極にある死を受容する営みに関して、多くの本が書かれていますし、また死の看取りの現場では、医学、心理学、哲学、宗教にいたるまで動員されて、身体と精神にかかわるケアがなされます。
その死を受容して、危機を乗り越えるとき、人はどのような言葉をもつのでしょうか。ある人は言います、「この病の時が恵みの時ですね」、またある人は「死ぬことは生きることだと分かりました」、「みんなのために天国の席を予約しておくからね」、これらの言葉は、すべて死を迎えた人々からいただいた言葉です。
それぞれに深い意味でのユーモアをたたえていることに気付かれるでしょう。死が悲しみでありつつ、感謝の出来事でもあることを私たちに教えています。ゆとり、温かさを残して、これらの人々は天国へ旅立たれました。
宗教改革者ルターはこう言ったと伝えられています。「明日が世界の終りでも、私は今日林檎の木を植える」。これこそ究極のユーモアかもしれません。
ユーモアをもって危機を乗り越えるためには、自分を超える存在に委ねる態度が求められるでしょう。委ねることのできる究極の存在をもつとは、信仰の世界に生きることです。そのとき、ルターが言ったとされる言葉がストンと胸に落ちるのではないでしょうか。